「ゼロ」について

「ゼロ」について考えてみる。

私の考えでは「ゼロ」というものは、ありえないと思う。

有があるから、ゼロを想像することが出来るのだが、「ゼロ」には、一瞬足
りとも時間も空間もない。「ゼロ」からは、「有」を想像することすらできない。

私達の認識する世界は、「有」で満たされている。

わかるのは、例えば十字の交わる点は、確かに存在するけれど、顕微鏡で
交わる点を、どれだけ細かく観察しても、限りがない。

結局、この僕らの認識する世界は、「限りなく0に近い1」からできている、
という考え。

若い頃、「玄米食」で断食したことがあるが、そこで、不思議な体験をした。

この相対界は、男性的な直線のXと女性的な曲線のOで出来ているとい
う認識に至り、最終的には、△の頂点、「X」「ゼロ」というもの、が宇宙の始
まりであると直感した。

地球の人間世界の大陸構造で考えると、直線的な男性的な性質が強いのが西洋、
一方曲線的な女性的な性質が強いのが東洋。その真ん中に位置するのが、「ゼロ」
を発見したインドという国がある。

ヒンズー教では、宇宙の始まりは「オーム」という響きが始まりであると説
き、日本の神道では、神社のししを見ればわかるように「あ−ん」を表す像が
神鏡の前に設置されている。インドでも、日本でも「オーム」「あーん」という音が
宇宙の始まり、または始まりと終わりをあらわしているのは、興味深い。

二元論的に考えると、「陰」と「陽」または「光」と「闇」という要素が、
大極的にあり、「大極」のマークのように、光(陽)の中には闇が必ず
存在し、闇(陰)の中には必ず光が存在して、ぐるぐる回っているのが、東洋
の大極思想観であると認識している。

そして、「有」と「虚」、「光」と「闇」の中心は、「X」言い換えれば「ゼロ」
なのだと考える。

平成24年7月9日

加藤K記