花の線の行先
線ですが、どこに向かうのか、どこで向きを変えるのか、線の加減は変わるのか変わらないのか、そしてどこで終わるの
か、あるいは終わるのではなく一旦休みなのか、そんなことを判断しながら引いています。引くというより置くであったり
走らせるであったり、刻むであったりと、多様な感じ方を含めるようにも努めています。その線も、まわりまわって描き始
めの点にたどり着くと、区切られた面的な形になります。区切られた形の全体観が第一に感じられるようになって、線の詳
細情報は二次的なものに弱まりますが、その形が面白く感じられればそれはそれでいいです。月並みなものになりそうであ
れば区切ることを避けたり、区切った後、さらに走らせて区切りの形状を紛らわせてしまうこともあります。形になるかど
うかはどちらでもいいということです。線がどう行くのか、それを重視しています。これが私の絵の線部分での出来事です。
今回、メインの作品では、花のような形を左半分にイメージしていて、線はその形状を現すのか現わさないのか、そのあた
りを揺れながらの進行となりました。それで題名が[花の線の行先」となりました。
題名を必ずつけるようにしていますが、なかなか決まらず困ってしまうことの方が多いです。やめればいいのにやめない
のは、思わぬ見直しが得られるからです。なんとなくの発想であっても、いろいろ考えているうちに自身の真相が見えてき
たりします。題名が決まっていくことで画面が変わるということもあります。私にとっては文言が絵に影響する、言葉によ
って絵が仕切られ直す、特別な検証過程になっています。今回の「花の線の行先」でも、つらつらと花の形、花の線と考え
ていたのですけれども、思い当たることがありました。
四つ切の紙をアクリル樹脂で加工して、ドローイングの様態で描いてきているのですが、そのきっかけの一つとなったの
が、ホルストヤンセンのドローイングだったのです。それを思い出しました。油彩画ではなく、線描を主体にした紙へのド
ローイングであること、色鉛筆等の多色混色で複雑な色彩の響きを導き出していること。そして圧倒的な量を描いているこ
と。これらのことに強く引き付けられました。他にも影響を受けた画家、作品は多くありますし、長く制作の紆余曲折に翻
弄されているうちに、原点にヤンセンがあることをすっかり忘れてしまっていたのですが、当時はヤンセンの画面を想起す
るだけで体中の血が騒ぎ立つ、それくらいに触発されていたのでした。そういえばと思い出している今も、この体感はよみ
がえります。特に植物を描いた作品に惹かれました。花や葉を描く作品は人物画よりも混色が濃厚で、色に入り込む自由度
も高いように感じました。現在の自作ですが、忘れていたのですから完全に無意識なのですけれども、改めて見直してみる
と、ヤンセン作品の影響はとても強いと自覚します。これには今後の検討の必要も感じます。また、もっと食らいつかない
といけないとも感じます。「花の線の行先」とは、ヤンセン先生(勝手にそう思っている)の花からの行程でもあるなと思い至
りました。
丹下敬文