加藤松雄展に寄せて

鈴木敏春

 

【加藤松雄先生の思い出 】

加藤松雄先生が名古屋造形芸術短期大学(現・名古屋造形大学)に来られたのは、確か1971
年で全国的に吹き荒れた学園紛争の下火の時代だった。ご多分に漏れず本校も我々全共闘
系にバリケード封鎖され、就任されたばかりの先生は勇敢にも封鎖されたバリケードの中
に現れ、「君たち就職が無くなるよ」と宣う。まあ、その時は芸術系で就職活動とは聞いた
こともなく冗談かと思った。その後も反芸術祭での美術評論家針生一郎(1925~2010)さん
の講演会などにも参加されて真摯な対話は印象深い。で、その年に先生は名古屋東別院内で
野外の個展を開催。私にも見に来るようにと云うので見に出かけた。作品はレリーフ上に板
を不定形な形に切り抜き、彩色して貼り合わせた作品だった。「今まで電通や日宣美のデザ
インの世界で生きてきたが、これからは自分自身の『磁場に向けて』根付いた活動をしたい」
と云われていたように思う。
1945年の敗戦からの思考の混乱から長らく経た「磁場」のこと、その為には「みるために
「描く」「描くためにみる」ということであった。
日本での美術史総体が西洋美術一辺倒な流れとしてあり、現代美術やコンテンポラリー
なアートの流れも「イメージ」と云う問題を抜きには考えられない。その事が問題となり、
あの霊幻道士キョンシーが流行りの時代、1980年代に四角のお札のような世界が絵の中に
現れては消えた。それは「イメージ」に振り回されるアートへの批判と自己批判への封印の
ようにも思えた。また量子力学の言葉も「イメージ」というアートへの批判的な試みとして
あったのではないだろうか?
しかしそれにしても、「イメージ」とは何なのか?
視覚のそれであり、それでないもの、つまり何ものかの、表象であり似姿であるかぎりにお
いて成立するものが「イメージ」なのである。「イメージ」するその当のものある程度は重
なり合うことを保証するのは類似するか何かであり、またもう一つは共同体的な世界での
約束事や慣行の事例でもある。しかし類似は所詮、類似でどこまでも交わることなく続く事
になる。自分が立つ「磁場」がアートにあるとしたら、それはアートが経済的にも成立する
大学という「磁場」であるだろう。或いは美術館と云う発表の場なのだが、今やそれらはさ
さやかな自由さえ奪われつつある。
ところで、「みるために描く」「描くためにみる」が、「表象されるもの」から独立して、
或るなまなましい実在感を主張し始めたとき、それはいかなる物質的な相の下に現れるの
だろうか。つまり、「近代」的なイメージの、資本主義化での物質化された「モノ」として
の現前の様態とはどんなものなのだろうか。先生の仕事はその一端への批判に見える。
※因みに本学では「先生」と云う言葉は昔から存在しない。それが我が共同体の伝統である。





 

 

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