「自我」についての考察

仮に、我のことを、自分や、「我」と呼ぶならば、この「自分」という存在は、この世界
では、「人間」と呼ぶらしい。

肉体の衣をまとって、太陽と呼ばれる、燃える球体の周りをを、また地球と呼ばれる球体
の上で回転しながら現在までに43回、周遊してきた。

「自分」と呼ばれる存在が、また、この文章を書いている「心」という、目に見えない振
動が、いったい何なのか、どこにあるのか、この「人間」と呼ばれる自我が、また、動物
として、「死」を迎えるときに、消えうせてしまうのか、永続的に存在し続けるのか?

物には、名前がある。

「コンピューター」というこの、金属とプラスチックでできた存在にもそういった名前がある。
りんごなら「りんご」という名前がある。またその物体は、「植物繊維と水からできた球状の
物体」と呼ぶこともできる。

結局、この「我」の知覚している世界のにある物体は、いろいろな名前をとるが、結局繋がっ
た兄弟であり、一つの「物」だと考える。

「我」は、この世界の「全て」であり、同時にこの広大な宇宙のちっぽけな、ちりのような
「部分」でもある気がする。

結局、この世が、自分が「何」なのかは、永遠の謎である。

平成24年1月20日 加藤 K記